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ブログを休んでおりましたが、思い出して 書いてみます。
父脳内出血で倒れる
あれは確か、父のお世話をして6~7年前の事、夜の8時ごろ、また母親と喧嘩をしたのか?そのあとに急に血圧が上がった様で、地面に倒れこみまではしませんでしたが、歩くことが変なのです。
カニのように横に歩いて行ってしまいます。本人もさすがに変なことに気づいて、自分で救急車を呼び、練馬順天堂病院に搬送されました。救急科です。
救急科ですので、病状が落ち着いたら、すぐに転院しなければなりませんでした。
父は病状が落ち着いたわけでもなく、いつ息途絶えても不思議ではない危篤、危ない状態でしたが、東村山の方の病院に移りました。相変わらず危険は続いていたのですが、先生からの説明とMRI画像による診断は、頭の後頭部下のあたりに、脳内に出血したあとがあり、血が溜まってしまっていて、様々な、作用と脳にダメージを受けたものでした。
あの時、母と喧嘩して、塩辛い食べ物が好きな父は、血圧が以上に上がり、血管が弱くなっていたところが破れてしまったのだと思います。一命は取り止めましたが、いわゆる、脳内出血であり、後遺症を残す、状態となりました。左目の視野が半分空間がなく見えなくなりました。ですから、まっすぐに歩けません。また、時間の概念が全くわからなくなってしまいました。夜になるともう朝だ!と、言って動き回るので、病院側も大変でした。
毎日の食事は、ほとんど、かなりの薄味です。水分のものは全てにとろみが付いています。この食事を父は毎回、不味い!食べれれないと言っていました。減塩が徹底されているのです。
そのおかげで、父の血圧はみるみる下がっていきました。
夜徘徊されると困るので、夜中は、小さな拘束機を
つけられていたのかもしれません。そのことにもひどく怒っている父でした。人権侵害だ!
と、そこでは、回復したのちに失われてしまった機能に対する、リハビリを行うところの病院、リハビリが始まりました。
私はしばらく毎日お見舞いに行っていたのですが、東村山までは本当に遠いいです。
毎日行くたびに、今日、退院だよな!と時間と日にちがもはや理解できなくなってしまった父には真面目にそう思うのですから、今日じゃぁないよ!と言って諦めてもらうしかありません。父82歳の夏です。
私は、父が倒れる少し前に、肺炎にかかり病院に3週間ぐらい入院して、退院した経緯があり、病院入院の辛さがよくわかっていました。
なので時間、日にちがわからない父のために、毎日欠かさずお見舞いにいきました。
今日、帰るんだよな!は毎日続きました。今日はまだ帰れないんだよ、、
そして、病院の帰りはすっかり暗くなっているので、駅の西友ストアで
家に一人でいる母親のために、毎日お弁当を買って帰りました。
本当に毎日続けて2ヶ月間、ここから要介護4の両親の在宅介護
の始まりでした。
長い介護の末、父が亡くなり、
突然の書き出しで、何のことやら?話せば前置きが長すぎてしまうのですが、
父母の在宅介護はしばらく続きました。エピソードは数々ありますが、例えば、父は昼夜の時間の区別ができないので、いつ外に出て行くかわからない、気の抜けない状態です。ある時はとんでもない真夜中に歯医者に出かけ、歯科の玄関のドアを叩くなどが数回続き、大変迷惑をかけてしまったことや、近所の公民館でふれあい茶話会があり、また定刻ではない勝手な時間に出かけてしまうので、職員の方も度重なってへきへきさせてしまいました。また家では真夜中2時ごろに、きちんと支度を整えて、私の寝ている部屋に入ってきて医者に行こう、時間だよ!と、私は起こされました。そんなことが重なっていた頃はとても大変でした。そしてある日、一人で外出した時に再度転んでしまって頚椎を骨折してしまいました。普通なら命はなくなっている状態です。ですが父の場合首の骨は折れているけれど、神経は、全く傷がない、圧迫もない奇跡のような状態で命拾いをしました。病院の入院も長引く状態でありましたので、足腰の筋肉も落ちてしまうだろうと予測ができました。その時にこれまでの経緯を振り返って、自宅に帰ってまた徘徊をすることになったとして、もし道路などに倒れ込んだら、父は車に引かれるかもしれない、そう思いました。もし、父が一人で勝手に出かけて、転んで車に轢かれても自業自得、ボロボロな体でここまでよく頑張って生き抜いてきた!しかし、はねてしまった人には悪くもないのに十字架を背負わすことは絶対にできない。決断しました。心が引き裂かれるほど苦しい決断です。覚悟です。この時から、施設を探す行動に移りました。施設探しは案の定容易ではありませんでした。やっと決まりかけた施設も、同時に父の前立腺がんが尿道を塞ぎ、バルーンとチューブ入れて、おしっこを流さなければならなくなった為、その処置は施設ではできません。と言われ断られてしまったこともありました。しかし努力のかいがあって、ご縁をいただき、特養に入所できることになったのでした。入所生活のことはまた違う機会にお話ししますね。
そして昨年妻を残して父が亡くなったことから始まる、その周辺の家族の苦労や奇妙な出来事を書いていきたいと思います。
父の一周忌にあたる今年の9月のこと、家庭裁判所から一通の手紙が届きました。
手紙をスキャンして載せたかった所ですが、我が家の複合プリンター、スキャンが調子が悪い。仕方なく写メして載せましたが、見辛いですね、要するに、家族が母親に対して、後見開始の審判事件が申し立てられたので、説明するので調査官が対応するので来てください。と言うもの。
これって事件扱いなんですねー、まず、あまりいい気持ちはしませんでした。
とりあえず、日時に訪ねて行くと、(結構遠いんですよねー)裁判所ってちょっと端?辺鄙なところにあったりして? 対応は、裁判官ではなく、担当の調査員が説明を一通りします。そして、こちらの意向を一応は聞いてもらえますが、結局は事後報告です。もしこちらが反対しても翻ることはないですから、、私が良い答えをしないと、がむしゃらに説得にかかって来ます。
賛否両論はあるでしょうが、確かにメリットもあるでしょう。老いた親を一人住まいをさせていれば、心配で、どこかの悪い勧誘に引っかかってお金を取られるかもしれませんし、オレオレ詐欺のアレンジ版も未だに止まないわけですし、それだったら、誰か信用の置ける人に財産管理をしてもらいたいと思うかもしれません。
でも母親は、今は施設に入居しています。身元引受人、保証人は私がなっています。両親の老後の世話介護を最後まで行って来ていたので、それも自然の成り行きです。父が先に亡くなりましたが、父の思いも私と同じで、母と家を頼むね、と、私は長女でもあるので、もちろん異存などありません。一生懸命やるだけです。し、やってきました。
苦労話を書いたら切りも限りもありませんので書きません。
そのような数年間が続き、父は入退院を繰り返し、また母も同じく入退院を繰り返し、要介護4で在宅介護でしたが、両親二人で一緒に入れる施設が見つかり、入居して落ち着く暇もなく間も無く父は亡くなりました。
話を戻します。裁判所で説明を受けて、帰りには以下のパンフレットをもらい、
休憩室で水分をとって休んで帰ることにして椅子に腰掛けると、目の前にテレビがありました。ちょうど流れてくる場面は、成年後見制度を使うと本人は、会社の社長や重職にはつけなない辞めなければならない。国家資格もなくなるし、取得することもできなくなるなど、何かに認定されてしまう。何か人権を犯されかねないことばかりで、母がかわいそうになりました。
母は、要介護4とは言っても足が悪くて自分で思うように踏ん張り立ち上がることができません。動く時は人の手を借りなければなりません。身動きが不自由なため要介護4の認定を受けたのです。頭脳の方は、もう90歳ですから明晰とは言えませんが、あの言葉忘れちゃった。なんだっけ?などの物忘れはありますが、それは年齢なりの忘れっぽさで、会話も普通にできますし、周りの空気も良く感じ取って積極的に声かけまでするぐらいなので、認知症などとは私は全く思いません。自分のやりたい意思も嫌なこともはっきり言えますし、相続手続きの趣旨もわかり、署名捺印もできます。
なぜ、父母が健在の時から、成年後見人について、会社を休んで専門家を家に呼び、説明を受けさせたのか?成年後見人にそれほどこだわるにか?さっぱりわかりませんでした。
しかし、他の家族が医師に母を何度も見せて、認知症と診断されたのです。認知症と言っても幅が広く、十把一絡げに考えることはできません。契約条項を締結できないとは簡単には言えないのです。そのことは、大変お世話になった、石川行政書士に教えてもらったことです。
ここに至るまでに、世間の安易な、相手側の自分本位な考え方、行動に、私も大分苦労し、奔走させられることになるのです。賛否両論あるでしょうが、この妙な出来事が、当たり前のように、語られていて、老人を抱える家族がどれほど苦労をしているかの実態を知っていただきたいのです。
最後にまた話を戻しまして、あの裁判所の説明を受けた後、数ヶ月経った頃、また手紙が裁判所から送られて来ました。
本当に見づらいですねー、書いておあることは
第◯◯◯◯◯号 後見開始の審判申し立て事件
審判
住所
申立人
申立人代理人弁護士
本籍
住所
本人
生年月日
本件について、当裁判所はその申し立てを相当と認め、次のように審判する。
主文
1、本人について後見を開始する。
2、本人の成年後見人として次のものを選任する。
住所
指名 〇〇 〇〇弁護士
平成〇〇年〇〇月〇〇日
東京家庭裁判所
裁判官 〇〇 ◯子
これは藤本である印
どのように感じるだろうか、今日はこの辺で終わりにします。